蝦夷の英雄「阿弖流為」3
平安時代の延暦20年(801年)坂上田村麿が岩手県西磐井郡平泉町の達谷窟に籠る悪路王、赤頭、高丸等を激戦の末破り、蝦夷を平定、戦勝は毘沙門天の加護と感じ、同地に達谷窟毘沙門堂を創建しています。
その翌年802年に阿弖流為は田村麿に投降し京に連れられ斬首されています。
その同じ年、胆沢城は田村麿によって胆沢の地(現在の岩手県奥州市水沢区佐倉河)に造られ、古代城柵というべきものです。大同3年(808)には鎮守府が国府多賀城から胆沢城へ移され、鎮守府胆沢城が成立します。10世紀の後半ごろまでの150年間ほどしていた機能と考えられてます。大正11年(1922)に国の指定史跡となりました。
胆沢城は、高さ約3.9m、一辺675mの築地ついじといわれる土で固めた塀とそのうち、外に掘られた幅3~5m、深さ1~1.5mの溝で方形に囲まれていました。全体の面積はおよそ46万㎡(東京ドーム9つ入る大きさ)あります。その内部は中央南寄りに一辺90m四方の塀で区画された政庁域せいちょういき、その脇に官衙かんがや厨屋くりやなどが広がっていました。
以上奥州市埋蔵文化財調査センターホームページより。
当時の蝦夷の民からすれば、圧倒的な軍事力を感じたことと思われます。
鎮守府とは古代日本において、陸奥国に置かれた東北支配のための、軍政を司る役所。今の宮城県の農民から駆り出された3000人の兵士と弓や馬術に優れた2000人の健士から、300人の健士と400人の兵士計700人が交代で勤務していたそうです。