蝦夷の英雄「阿弖流為」1
平安時代の延暦20年(801年)坂上田村麿が達谷窟に籠る悪路王、赤頭、高丸等を激戦の末破り、蝦夷を平定、戦勝は毘沙門天の加護と感じ、岩手県平泉町に達谷窟毘沙門堂を創建しています。
その翌年802年に阿弖流為は田村麿に投降し京に連れられ斬首されています。
その同じ年、胆沢城は田村麿によって胆沢の地(現在の奥州市水沢区佐倉河)に造られ、古代城柵というべきものです。大同3年(808)には鎮守府が国府多賀城から胆沢城へ移され、鎮守府胆沢城が成立します。10世紀の後半ごろまでの150年間ほどしていた機能と考えられてます。大正11年(1922)に国の指定史跡となりました。以上奥州市埋蔵文化財調査センターホームページより。
今回「阿弖流為」の拠点であった現在の奥州市水沢区を訪れてみました。ここが拠点であることは初めて知りました。奥州市埋蔵文化財調査センターと隣接する胆沢城も訪問しました。本拠地はこの付近であることは間違いないのですが、まだ確定できていません。しかも、胆沢城は胆沢町にではなく、水沢にあるとは二度びっくりです。
奥州市埋蔵文化財調査センターにある、役人の食事を紹介したいと思います。
上級役人(五位以上の貴族)食は、あゆの塩焼き、鹿肉のなます、里芋・栗・ひしの実・枝豆・しいの実・かんす、アワビのウニあえ、白米のごはん、わかめのお吸い物。
胆沢城では将軍だけ食べた。
下級役人は、玄米のごはん、ヒジキの煮物、塩。
庶民はごはんが少しはいったおかゆか玄米、青菜、山菜、塩。恐ろしい違いです。
みやこの貴族はもっともっと豪華版。租庸調ですから。
唖然。