蝦夷の英雄「阿弖流為」3
蝦夷の英雄 阿弖流為は今から約1,200年前、現在の奥州市水沢区付近で生活していた蝦夷の一人です。当時『水陸万頃』と言われていたこの胆沢地方と蝦夷を統治したい朝廷軍との戦いがありました。その中で阿弖流為は蝦夷のリーダーとして勇敢に立ち向かった人物です。
阿弖流為という名は『続日本紀(しょくにほんぎ)』、『日本紀略(にほんきりゃく)』という古い文献2冊にそれぞれ1度登場します。『続日本紀』では、延暦8年(789)、巣伏村での戦いで朝廷軍に大勝した時のリーダーとして書かれています。
しかし、この戦いを含めた幾度もの戦いで朝廷側でも多くの犠牲を強いられていました。『日本紀略』には延暦21年(802)、阿弖流為は仲間の母礼(もれ)と共に征夷大将軍だった坂上田村麻呂の下に降伏し、都へと上ります。田村麻呂は朝廷に2人を故郷、胆沢へ返すよう進言(しんげん)しますが聞き入れてもらえず、旧暦8月13日阿弖流為と母礼は河内国椙山〔現在の大阪府枚方市〕で処刑された、と記されています。以上奥州市埋蔵文化財調査センターホームページより。
奥州市埋蔵文化財調査センターの展示室の入り口には朝廷の兵士の模型が置かれています。アテルイの化身 悪路王の首塚(模型)も飾られています。
胆沢城は、平安時代はじめの延暦21年(802)、坂上田村麻呂によってこの胆沢の地(現在の奥州市水沢区佐倉河)に造られた古代城柵です。敷地は、およそ46万平方メートル(東京ドームが9つも入る大きさ)もありました。胆沢城の築城の途中で降伏したのでしょうか。陸奥国は、中央政府の統治下に置かれる時代となります。
こんな兵士と戦うには、武器、兵士等兵力差があまりにありすぎたのでしょう。