東日本大震災、仙台、名取
2011年東日本大震災発生時、私は仙台市職員として働いていました。庁舎が大きく揺れ動き、長く激甚な揺れを感じました。棚は倒れ、書類は散乱し、恐怖にのまれた人々は阿鼻叫喚となりました。あまりの混乱のため、地震がおさまった時、遂に宮城県沖地震が来たかと思ったものです。当時新聞やテレビなどのメディアにおいてもいずれ必ず来るとされていたことであり、私自身それは近くに起こると感じていたこともあり、この時がついに来たか、という思いがありました。その時点での感想はそうしたものでしたが、被害状況が判明してくるにつれ、想像を絶する大規模かつ広域にわたって発生した稀に見る大災害ということがわかってきました。
3月11日の本震後、避難所開設のため、海岸に比較的近い小学校に派遣されました。そこへ向かい車で移動しているさなか、沿岸部へ向かい津波が押し寄せてきているという情報が、ラジオ、災害対策本部の連絡により判明し、非常な危険を感じました。
小学校に到着すると、津波により海水に浸かった人たちが、冷え切った教室に幾人も続々と集いつつあり、現場は混乱の中にありました。風雪が舞う中、小学校の教員室で震えながら、皆と共に一夜を過ごしました。その間、被害を受けた沿岸部から一旦退避したのにかかわらず、自宅に戻った人がいる、など緊迫感をもった情報がおびただしく流れてきました。
翌日、新聞をひらいたところ、激甚な津波に飲み込まれ海に沈んだ街が一面に載った、河北新報のトップ記事を見ました。それが名取の閖上と気づくのには、時間がかかりました。
復興のシンボル日和山の写真です。