政宗と秀吉
伊達政宗と秀吉には30歳近い年齢差があります。
秀吉が伊達政宗と直接的な勢力争いになったのは秀吉の小田原征伐です。
日本中の大名を集め、強大な兵力とロジスティックスをもとに、北条氏が抱える天下の名城小田原城を包囲した秀吉ですが、遠征の目的は北条氏の討滅のみでなく、自身に従う大名が誰か見定める側面がありました。
すでに惣無事令という天下の争いを止める法律を発した後だったのもあります。
反抗心の塊である伊達政宗の小田原への来訪は、彼の性格上遅れに遅れ、その対応の悪さから秀吉を激昂させることになりました。
伊達家討伐軍が派遣されかねない状況となり、さすがに政宗も折れます。
彼は死装束を着て来陣する強烈なパフォーマンスを行い、秀吉の面子を劇的に立てました。
結果彼は許されることになりました。ちなみに来陣の折の伊達麾下の対応や見た目が評判を呼び、伊達男の言葉を産んだという説があります。