政宗と家康
戦国時代、東北を代表する雄である伊達政宗。
彼と徳川家康の関係性は当時どういうものだったのでしょうか。
両雄が利害を交えたのは関ケ原の戦いになります。
開戦後、東北でも西軍の上杉景勝と東軍の最上義光が争うこととなりました。
徳川家康は上杉軍を恐れ、政宗に協力を要請し、それに応えれば領地が100万石になるよう加増すると書状を送りました。
その要望を受け政宗は東軍に属することになりましたが、彼は両軍の激突中、終始戦況を見るに徹しました。
結局東軍勝利が確定した段階で最上へ援軍を派兵します。
このことを徳川家康は良く思わず、加増額は2万石にとどまることになります。
ちなみに戦国時代の終わりを締めくくった大阪夏の陣の一幕である道明寺の戦いで、伊達軍は徳川軍に向けて一斉射撃するなど、
行動に対して諸説残るただものではない存在感を残しています。
ちなみに三代目の徳川家光の時代まで伊達政宗は存命しました。
徳川家康、2代目の秀忠との関係は微妙とはいえ、三代目の家光からは非常に慕われることとなります。
戦国が終わり、太平の世が訪れた中で、最前線で戦い続けた実力ある生き残りは、政宗をおいてほぼいなかったからでしょう。
信長、秀吉、家康と30歳近く年が離れていたからこそつながった宿命でした。