岩手県平泉町達谷窟毘沙門堂1
岩手県平泉町達谷窟毘沙門堂を訪れてみました。現在の国道4号線からは外れた、世界遺産中尊寺の近くに位置しています。以前は森深い山の中の小道沿いだったのでしょう。
達谷窟も世界遺産に追加登録しようとしているところです。
平安時代の延暦20年(801年)坂上田村麿が達谷窟に籠る悪路王、赤頭、高丸等を激戦の末破り、蝦夷を平定、戦勝は毘沙門天の加護と感じ、達谷窟毘沙門堂を創建したとの記載が毘沙門堂達谷窟縁起にあります。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)に住む人々を異端視・異族視した呼称である。
蝦夷は古くは愛瀰詩と書き(神武東征記)、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読んだ。後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる。「えぞ」が使われ始めたのは11世紀か12世紀である。ウイキペディアより。
また、蝦夷は朝廷から「まつろわぬ(服従しない)民」と呼ばれたそうです。
今回蝦夷の英雄「阿弖流為」が、達谷窟において坂上田村麿に打ち取られた悪路王ではないか、と記憶していたので訪ねてみました。阿弖流為は蝦夷が平定された801年ではなく、802年に田村麿に投降し京に連れられ斬首されています。
しかしながら、毘沙門堂達谷窟縁起には平定時に悪路王は首を刎ねられたとあります。
翌802年には田村麿は別當寺として、達谷西光寺をここに創建しています。
毘沙門堂達谷窟縁起には、悪路王は良民を苦しめ乱暴な振る舞いが多かったと記載されていること、毘沙門天を祀ったこと、別當寺を創建したこと等を見ると、田村麿は蝦夷平定に強敵ゆえ相当難儀したのでしょう。大義名分の無い戦いですし、殺戮を繰り返したわけですから、レクイエムかもしれませんが。
蝦夷の英雄つまり総大将をうちやぶったからこそ、蝦夷の反発を恐れての、正当化のための一連の行動だったのではないでしょうか。