中将藤原実方朝臣の墓2 歴史より葬り去られようとした才人
平安中期の人、藤原一門のなかでも由緒ある家柄に生まれ、風流と美貌を兼ね備えた貴公子と言われる中将藤原実方朝臣。
実方が死んで189年、文治元年(1186年)秋西行法師が実方の墓を訪れた時、詠んだ歌が刻まれた歌碑があります(明治40年立石、写真)。
「朽ちもせぬ 其名ばかりを とゞめおきて 枯野のすすき かたみにぞ見る」。
元禄2年(1689年)には俳人松尾芭蕉が奥の細道をたずねた折、雨で道が悪く墓へ参ることができず、植松より、
「笠島は いずこ五月の ぬかる道」と一句(写真)。
ところで、名取市設置の「中将実方朝臣について」に、実方が陸奥守に任ぜられた原因が記載されています。
ある年の春、殿上人がそろって束山に花見に出かけたところ、にわかに雨になり人々が慌てたのに、一人実方が少しも慌てず
「桜がり 雨は降りきぬ 同じくは ぬるとも花の 陰にかくれむ」と詠じた。それが評判になり大納言が主上に奏上したところ、殿上で三蹟の一人に上げられる藤原行成が「歌は面白し、実方はをこなり」といった。「をこ」とは馬鹿の意味だそうな。
これを後日聞いた実方が殿上で出会いがしら、行成の冠を投げ捨てて立ち去った。これを御覧になった一条天皇が、「行成は召し使うべき者」とし蔵人頭に取り立て、実方には「歌枕見てまいれ」といって、陸奥守に任じたという。[撰集抄][十訓抄]が原典のようです。
事件後大分あとの古典なので事実かどうかはわかりません。これが原因とはいえないでしょうが、この話からは何かをきっかけとして、実方が追放されたというところでしょうか(実際の首謀者はたぶん別でしょう)。それにしても、土民が住むと言われた、墓が京から辺境の地名取市愛島(めでしま)にあることは解せないですね。