中将藤原実方朝臣の墓4 歴史より葬り去られようとした才人
平安中期の人、藤原一門のなかでも由緒ある家柄に生まれ、風流と美貌を兼ね備えた貴公子と言われる中将藤原実方朝臣。
名取市愛島には中将藤原実方朝臣のゆかりの地がたくさんあるといいます。
「中将実方朝臣の墓」という名取市観光協会のパンフレットによると(名取市史にもあるのでしょう)
馬蹄地(暴走した馬を茲めたという所)
寓舎地(怪我をした実方が土地の人の家に担ぎ込まれそこを仮宿として介抱された、仮宿)
文捨山(実方が京の友人へ手紙を出そうとしたが果たせず、これを捨てた所)
尸崎(われ神罪によってこうなった。死せし後屍を2.3日さらして後人の戒めとせよの遺言により実方の屍をさらした所)
釜場(実方を火葬にした所)
笠掛の松(われ死せる後京より家人訪ねて来たらん時の印に常用の笠をかけて置くべしの遺言によって掛けられた松)
仮宿という地名はあります。宮城県名取市愛島塩手仮宿。その他は見たことがありません。公正証書遺言でもあったんでしょうか。罪人に仕立て上げられた実方。反省材料がないのに反省遺言。京の貴族は当時火葬にしていたようですが、骨なら京に持って帰れるでしょう。痕跡抹消。由緒ある家柄なのですから。また、地方長官の手紙を京に持って帰れないなんて、物理的に不可能でしょう。すべて実方を追放した人物、ないしはその周辺の意図が感じられるものばかりです。
その死後、京の賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没すると言う噂が流れたり、死後にスズメに転生して宮中の米を食い荒らしたとの伝説もあるそうです。京人の判官びいきか。
追放した人物はだれかわかりませんが、当時は藤原道長が権力を奪っていく過程にあったようです。
中将藤原実方朝臣の墓はひどいものです。土盛りでね。
私自身の結論ですが、実方は首謀者ないしその周辺人物に、才能を妬まれないしは危険視され、陸奥国という辺境の地に追放され、任期終了間近に意図的にか落馬させられ、治療技術がないので粉砕骨折かなにかで治癒できず、死亡。政権中枢からは、骨も手紙も排除され、それゆえ義経と同様京人の判官びいきにより伝説が生まれたものと考えました。
しかしながら、この歴史的事件は、大才能ある人物をいくら歴史から葬ろうとしても、その才能、実績故、不可能であることの証左ではないでしょうか。