中将藤原実方朝臣の墓3 歴史より葬り去られようとした才人
平安中期の人、藤原一門のなかでも由緒ある家柄に生まれ、風流と美貌を兼ね備えた貴公子と言われる中将藤原実方朝臣。
前述のとおり、突然、995年陸奥守を命じられ、いわば、京から地方出先機関に追放されたようです。自ら進んで陸奥守を望んだという説は取りがたいと考えます。
土民が暮らす辺境の地、当時陸奥国の支配も確実ではなかったでしょう。ライバル藤原行成の日記には、赴任にあたり、褒美を大量に与えられたと記載されているようですが、陸奥国では使えない代物でしょうし、形式的な儀式ではなかったでしょうか。日記は自分が原因者として関わっていないことを主張しているように感じます。
しかも、陸奥国に赴任して数年後の長徳4年(998年)、陸奥守としての4年の任期が終わり京に帰還する寸前で、実方は赴任先で不慮の死を遂げることとなります。「源平盛衰記」によると、
実方は任期を間近に、出羽国千歳山阿古耶の松を訪ねての帰り道、名取郡笠島道祖神社(写真,実方の墓のすぐ近くの佐具叡神社(写真)という説もありますが、馬で行くには急斜面ですがどうでしょう。))の前を馬に乗りながら過ぎようとすると、土地の人が「この神は効験無双の霊神、賞罰あきらかなり、下馬して再拝して過ぎたまえ」と言ったが、実方は「下馬に及ばず」と無視して通り過ぎようとすると、神罰により馬が暴れだし落馬がもとで、病となり帰らぬ人となったといいます。
「源平盛衰記」も事件後大分後の古典ですし、土着の人間が京から来た、好戦的な征服者を諌めるなどまずないでしょう。この神は誰を指すのかがポイントですね。