源頼朝による文治の役(1189年頃)の古戦場 宮城県村田町 韮神山 「芭蕉の句碑」「藤原実方の歌碑」
韮神山
宮城県柴田郡村田町大字沼辺字韮神
https://www.nihon-kankou.or.jp/detail/04322af2170017540
宮城県柴田バイパスにあるので、大河原町で司法書士を開業しここを通るたびに、韮神山は大河原町とずっと思っていました。村田町なんですね。この辺は柴田町、大河原町、村田町がいりくんでいます。名取より20キロくらい南に位置しています。名取市に司法書士事務所を移転して、仙台法務局大河原支局に行く今でもここを見て通り過ぎます。案内板を見ると、バイパス工事の際、歌碑などが道路から見えるこの場所に集められたようです。
韮神山には「芭蕉の句碑」、「藤原実方の歌碑」等があります。また、ここは、源頼朝による文治の役(1189年頃)の古戦場です。地元ではあまりいい印象のないところのようです。
案内板には、
昭和56年4月、国道4号柴田バイパス工事に係る事業のため、山の一部が失われましたが、昔の面影が残っています。山の上には多くの
黄韮が自生していたので住民がこれを山の神の霊としてあがめ、このことから韮神山の名が生まれました。と記載されています。
「芭蕉の句碑」
芭蕉に心酔していた大河原町の俳人村井江三が、弘化3年(1846年) この句碑を建てたとされています。
「鶯の 笠おとしたる 椿かな」
藤原実方の歌碑である「憚りの関の歌碑」
「やすらわで おもひ立ちにし みちのくに ありけるものを 憚りの関」
ためらいもせずに思い立って来た東国だったのに、いざ「はばかりの関」に来てみると、その名の通り、気が引けてしまうのです。とういう意味だそうです。
万治元年1658年 建立。
光源氏のモデル、才人と言われた実方、平安中期の人、藤原一門のなかでも由緒ある家柄に生まれ、風流と美貌を兼ね備えた貴公子と言われる中将藤原実方朝臣。
995年陸奥守を命じられ任地に赴く時の歌でしょうか。無念の思いを感じざるを得ませね。陸奥国に赴任して数年後の長徳4年(998年)、陸奥守としての4年の任期が終わり京に帰還する寸前で、実方は赴任先で不慮の死を遂げることとなります。墓は名取市愛島塩手字北野42。土盛りの墓です。