原田甲斐の母の墓2 陸奥国亘理郡
宮城県亘理郡亘理町長瀞字夜討坂にある「原田甲斐の母慶月院の墓」を探索してみました。駐車場に立て看板があり、龍淵寺跡とあります。
坂上田村麿がこの地で蝦夷平定を祈願したとあり、後に平泉の藤原秀衡が東北観音の礼所としたともあります。
田村麿はここを通過したんでしょうか。東街道があったそうです。蝦夷征服を正当化するためかやたら、東北には田村麿の逸話が出てきますね。特に神社、寺。お先棒を担ぐ輩もいっぱいいたんでしょう。どちらの英雄も馬力があったのはたしかな感じです。
この寺跡を横切り、鬱蒼とした山道を何百メートルも登っていくと、太平洋側が一望できる、奥まった、急斜面の上部の開けた場所に慶月院の墓がありました。猪か熊が出そうで一人では少々怖い感じです。なんと墓石ではなく単なる岩です。名無しです。
当該場所は大雄寺住職の隠居寺であった陽林庵の一画だそうです。
慶月院は亘理伊達家に預けられ舌を噛んで自殺を図ったものの、歯がなかったゆえ死にきれず、五十余日の絶食後に亡くなったとされています。
息子の潔白を信じ、断食して死んだ慶月院の強い思いが、墓を建てさせのでしょう。