蝦夷の英雄「阿弖流為」4
坂上田村麻呂以前、胆沢と志波の蝦夷(えみし)が北上川中流域の二大勢力であった。
志波の蝦夷が親朝廷派に転じている。延暦11(792)年に、志波の蝦夷の胆沢公(いさわのきみ)阿奴志己(あぬしき)らが多賀城に使を遣わし、自分らは政府側につきたいと。
志波村のリーダーが胆沢公という名であることからすると、阿奴志己自身または父親は、胆沢地方出身であったのではないかと思われる。780年代には、胆沢の蝦夷と政府軍とが激しい戦いを交えており、とりわけ延暦8(789)年の戦い(巣伏の戦い、阿弖流為の名が初めて歴史に登場)は、政府軍は大敗している。この時期には胆沢と志波・和賀は、同盟関係にあって同一歩調をとっていたのである。
ところが、志波は政府側に接近する姿勢を見せるようになり、同盟が破綻(はたん)したのである。なお、胆沢の阿奴志己が志波のリーダーの地位についたのが、同盟破綻以前なのか以後なのかで、事情はいささかちがってくるが、もともとは胆沢の蝦夷の集団の指導者のひとりであった胆沢公阿奴志己が、親政府的な言動ゆえに胆沢地方の蝦夷からはじき出されて、志波地方の蝦夷の族長の地位におさまったという可能性もないわけではなかろう。
以上岩手日報「平泉ヘの道」より。
802年に阿弖流為は田村麿に投降し京に連れられ斬首されています。
胆沢公(いさわのきみ)阿奴志己(あぬしき)が胆沢(現在の水沢市)から志波(現在の盛岡市付近)に逃げたため、阿弖流為は挟み撃ちに会い、降伏したのでしょう。
胆沢公(いさわのきみ)阿奴志己(あぬしき)の裏切りがなければ、坂上田村麻呂もこんなに早く蝦夷支配を確立できなったでしょう。